《シネマトーク》
『愚か者の船』公 開前後のヴィヴィアン
-Ship of Fools Release-
 『愚 か者の船』(1965)ヴィ ヴィアン・リーの最後の出演映画ですね。
 ヴィ ヴィアンの晩年の作品は生々しくて辛くなりますけど、敢て触れてみますね。
  ナチス・ドイツでヒトラーが政権を取った年に、メキシコのベラクルスからドイツへ向けて出航した客船ベラ号に乗 り込んだ“人生の愚か者”の悲哀を描いた作品です。
 ヴィ ヴィアンの役は、その 中の一人、40才を越して外交官の夫と離婚した、美しいアメリカ女メアリー・トレッドウェルです。
  気高いメアリーは孤独と欲望との狭間で、鏡に向かって虚しく化粧をします。
  醜くく化粧をする姿は凄い迫力です。
 あの美の象徴のようなヴィ ヴィアンの顔が…
 これぞ女優魂ですね。
 「よ くぞ、そこまでやってくれました」と涙が溢れてきましたよ。

 ヴィヴィアンは、この作 品の前(1963年3月)に ブロードウエイ・ミュージカル『トヴァリッチ』の舞台に立っていて、年 齢的限界に挑戦していたのですね。
  白いエプロンをかけてチャールストンを踊る陽気な小間使いを演じて観客をわかせていたそうですよ。
 それで初日があいてからすぐ、ヴィ ヴィアンにトニー賞が与えられます。
 すべての批評家が口を揃えて彼女の魅力と才能を称えていたそうです。(アン・エドワーズ著『ヴィヴィア ン・リー』 参考)
 舞台は大好評で再演されますが、体の具合がかなり悪かったのを隠して演じ続けていたヴィヴィアンは突然倒れ てしまいます。
 その時の状況をエドワード著に、
“ヴィ ヴィアンはノエル・カワードや、ディーツ夫妻のような親し い友だちの前では自分をおさえることができるようであったが、ジャック・メリヴェールと二人だけの ときや劇場の楽屋にいるときにはしばしば自制心を失った。
ある夜、家を出る前、彼女 の躁症状が酷くなった。テッド・テンリーが居合わせて、ジャックを助けて彼女をとりおさえようとし たが、彼女はからだをドアにぶつけ、部屋の中をめちゃめちゃにして、ほとんど一時間近く、トラのよ うに暴れた。おそろしいヤマネコの性格がうかび出ていた。やっととりおさえられたとき、彼女はすす り泣きをしながらジャックにしがみつき、さいごにはめちゃめちゃになった部屋の中をこわごわ見まわ して、仔ネコのようにからだをまるくした。10月7日、彼女がほんとうに正気を失いつつあるのでは ないかとジャックが心配しているなかでヴィヴィアンは最後の大公妃を演じた。ジャックとトルーディは彼女を睡眠剤で眠らせてロンドンにつれて帰り、コナ チー医師の手にゆだねた。彼女はいつもより時間をかけた処置をうけた後、ジャックとバンブルと一緒 にティカレージ荘にもどった”と、あります。
 そして、草鹿宏著にも、
“劇 場の楽屋口へ救急車が横づけになった。極度の疲労で倒れたヴィヴィアンは、担架に寝かされたとき、 突然意識を回復して、あたりを見回した。
「私 は病気ではないわ!いったいどこへ連れて行くつもり? 早く降ろして、私には舞台があるのよ!」と、叫んだ。だが、その目は恐怖におびえるように光り、声はかすれている。 相手役のジャン・ピエール・オーモンがなだめると、涙ぐんで激しく首を横に振った。
「大丈夫よ。舞台があるうちは、病院へ送らないで!」
鎮静剤の注射が打たれ、ヴィヴィアンが力を失うと、青ざめた顔の上にガーゼ がかぶせられた。
到底舞台に立つことは無理という医師の診断で『トヴァリッチ』の代役にはエ バ・ガボールが決まった。ヴィヴィアンは重病人として空路ロンドンへ運ばれることになったが、機内 ではほかの乗客から完全に隔離され、昏々と眠りつづけた。
ブロードウエイから ロンドンに帰されたヴィヴィアンは、ほぼ一年にわたる長 い、苦しい闘病生活を送った。「もはや彼女が再起することはあるまい」とうわさされた。
過労と流産と、神経症の発作、そして肺結核。
幾度かの危機を乗り越えて来たのは、演劇への燃えるような意志と、神から恵 まれた生命力のたまものだった。
「私 は、まだ死ねないわ。一生は短すぎて、思い残すことばかりかもしれないけど、心の美しさと誇りだけ は失いたくないの。もっと仕事がしたい、もっと……」
メリヴェールに会うと、そう言った”と、記されていま す。
 その後(1965年3 月)にスタンリー・クレイマーから「『愚 か者の船』に出演する気 はないだろうか」といってきたのですね。
 クレイマーがロンドンに訪ねて来ることをヴィ ヴィアンはシンディ・ディーツに手紙を書いています。
「…… 明日、スタンリー・クレイマーに、彼がこの夏に製作する映画のことで会いますー興味のある作品であ るとよいと思っています」
1週間後、
「クレイマーに会って、大いに興味がわき、おもしろい映画ができそうな気が しています。第一稿を1週間後にうけとります。それまでに原作を読まなければなりません。700 ページです!」
4月27日、
「…… あなた方が途中で立ちよるようにといってくださるのはとても嬉しいのですが、おそらくひまがないで しょう。出発前に片づけなければならないことがたくさんあります。こんどの映画は興味のある作品に なると思いますし、私の役は少々書きたりないところがあるのですが、やりがいのある挑戦的な役なの で、ひきうけることにしたのです。クレイマーは、一緒に仕事をしたくなるきわめて小数の監督の一人 であり、プロデューサーの一人です。……ジャックは『ミェリー、ミェリー』をウィンザーで撮影して いて、順調です。……ホセ(キンテーロ)が突然ロンドンに やってきて、すぐ立ち去りました。ジョージ(キューカー)が来て、私たちを訪ねてくれました。ラリーは『オセロ』ですばらしい成功をお さめています。私たちは明晩見るつもりです。今日、ラッパスイセンとスイセンとワスレナグサと チューリップを摘みながら、あなたが一緒だったら、どんなによかったろうと思いました。太陽が輝い ていて、すべてがあなたに見てもらうのを待っているように美しいのです。おしあわせで。ヴィヴィア ン」と。(アン・エドワーズ著『ヴィヴィ ア ン・リー』より 抜粋)
 ヴィ ヴィアンの心情、心配りが伝わってきますね。
  先に載せたような神経症の発作と20年程前から患っている肺結核の症状に苦しみ、ロンドンで1年間の闘病生 活を送った後の作品がこの『愚か者の船』だったのですね。

 ヴィヴィアンは1953年 のパラマント『巨像の道』のセイロン島ロケの時も、共演を 予定されていたオリヴィエが他の仕事で降りたために、異常な孤独感に苛まれて発作を起こしましたけど、奇跡 的に再起しましたね。
 この時は強度の神経衰弱で錯乱状態に陥り倒れてしまったヴィ ヴィアンをオリヴィエが迎えに来て英国へ連れて帰ろうとしたのですね。
  そこにカメラマンが押し掛けてきて、変わり果てたヴィヴィアンにカメラを向けようとしたのです。
 オリヴィエがカメラマンに向かって言います。
「貴方たちにも家族がいるでしょう」と。
 その一言でカメラを閉じたそうです。
 このことは美談として語り継がれています。
 ヴィ ヴィアンはサリー州 ネーザン病院に入院することになりますが、この時のことはバ イオグラフィーに載せていますけど、壮絶な状況から不屈の誇りと執念で不死鳥のように蘇ってく るのです。

 再起不 能と思われたヴィ ヴィアンが復活し、『愚か者の船』の撮影のために渡米したものですから、多くの スターたちがヴィ ヴィアンの演技を見ようと連日スタジオへ押しかけたそうですよ。
 また、共演する俳優たちはシナリオを担当したアビー・マンにヴィ ヴィアンとからむ場面を書き足してもらえないかと頼んできたといいます。
 アビー・マンは、その中のオスカー・ウェルナーに「その注文はあなたで6人目ですよ」と答えたそうです。
 それだけヴィ ヴィアンには魅力があり、憧れの対象だったのでしょうね。

 草 鹿宏著に、
“メ アリー役は再起のヴィヴィアンにとって、いささか残酷なキャラクターのようにも思われるが、あえて それを選んだ勇気と、強い意志に、周囲は胸を打たれた。彼女は演技派のシ モーヌ・シニョレ(伯爵夫人)を圧倒し、多くの批 評家から「メアリーの演技で3度目のアカデミー賞を獲得するのではないか?」と予想されたほどで あった”と。
 また、ヴィヴィアンが、
「孤 独は恐ろしいものです。現実から逃避した生き方をすれば、それを忘れることもできるでしょうが、自 分を偽れない人間もいます。私が演じた多くは、内に情熱を秘めながら超然と、孤独な人生を送る女た ちでした。『愚か者の船』のメアリーも、そのひとりです」と、語ったことも載 せられていますよ。
 エドワード著には、
“ク レイマーは、彼女の症状に気がついていた。彼女と契約する前から、病気について知っていたのだっ た。彼は口をきわめてヴィヴィアンを賞讃していて、いまでもこう語っている。「彼女の勇気はすばらしいもので、病気のために問題が起ったとい うことはほとんどありませんでした。ヴィヴィアンの勇気ある態度は、どんなに強調しても強調しすぎ るということはありません。ふつうの人間だったらとうてい仕事をしようなどと考えないような状態の ときでも、彼女は私が一緒に仕事をした俳優たちの中で最も勤勉で、最もプロの精神に徹していた一人 です」と、記されていま す。


『愚か者の船』リー・ マーヴィン、ヴィヴィアン・リー


『愚か者の船』ヴィヴィ アン・リー

 『愚 か者の船』の後もジョン・ギールグッドと共演した舞台『イワーノ フ』と、モーリス・ドリュオン原作の舞台『伯爵夫人』に出演していますね。
 この『伯爵夫人』がヴィ ヴィアンの遺作となっています。
 舞台を愛したヴィ ヴィアンらしいですね。
 草鹿宏著によりますと、
「こ の芝居に私はとても魅かれているの。ここにはいろいろな女の 人生が、集約されていると思うわ。それ以外のものに拘る必要はないでしょう。女の美しさは、年齢や 容姿だけではなく、心の問題なのだから……」と、ヴィ ヴィアンは語って77才の老け役を演じたそうです。
 しかし、意欲に反して不評だったのですね。
ヴィ ヴィアンの動きがあまりにも美しく優雅で、陳腐な台詞までも堂々と聞こえてしまう」と批評家が指摘しています。

 失意のヴィヴィアンをめぐっ て、献身的なメリヴェールとの結婚がささやかれ広まったそうです。
 だけど、ベットの傍にオリヴィエの写真を飾り続けていたというヴィ ヴィアンですから彼との結婚は考えていなかったのではないかと思います。

  1967年夏にエドワード・アルビーの舞台劇『微妙なバランス』の上演が予定され、ヴィ ヴィアンは早くからそ の準備にとりかかります。
 6月末、舞台用に注文した鬘が出来上がり、すでに台詞も完璧に入ったころになって、肺結 核が急激に悪化して 医師に休養をすすめられます。
「舞台がすむまで延ばしてほしい」と望んだヴィ ヴィアンの検査結果を見て、舞台に出演の可否を決めるという処置が取られます。
 しかし、肺結核はもう体力の限界までヴィ ヴィアンを追いつめていたのです。
 ヴィ ヴィアンは睡眠薬なし で眠れず、病院へも入らぬまま衰弱を早めます。

 7月7 日の午前中、ヴィ ヴィアンはハウスキーパーに1泊の休暇を与え、終日『微妙なバランス』の台詞を復習します。
 夜更けて医師に止められていた睡眠薬を飲みます。

 7月8 日朝、仕事を終えたメリヴェールがアパートを訪れますが返事がなく、合鍵で部屋へ入ります。
 ヴィ ヴィアンがベッドに 突っ伏しています。
「ヴィヴィアン!ヴィヴィアン!ああ……!」と胸をえぐられる悲しみに震えながら、すでにこと切れていたヴィ ヴィアンをメリヴェールが擬然と見つめます。
 少量の喀血が気管内で凝固したための窒息死であったそうです。

「私は夜になって劇場に足を踏み入 れると気持ちが落ち着くのです
私は観客が好きです。私は人間が好きで、人々に楽しみを与えるのが好きな の、舞台に出るのが好きなのです」と、言っていたとい うヴィ ヴィアンはだれに見取られることなく独りで旅立ちました。

 その 夜、ロンドン・ウエストエンドの劇場街は照明を消してヴィ ヴィアンの死に哀悼の祈りを捧げました。
 素晴らしい作品を遺した偉大な女優を称えて。

更新 2008.3.5
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参 考文献

ヴィ ヴィアン・リー

ヴィ ヴィアン・リーバイオグラフィー
『風 と共に去りぬ』
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』公開前後
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』コスチューム
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』出版前後
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』ミュージック
『哀 愁』
『美 女ありき』
シ ネマトーク『アンナ・カレニナ』
『欲 望という名の電車』
洋 画
シ ネマトーク
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映 画ありき2
〜クラシック映画に魅 せられて〜
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