《シネマトーク》
『風 と共に去りぬ』出版前後

-Gone with the Wind PubliIcation-
 マーガレット・ミッチェルが南北戦争時代の南部の生活を描いたロマンチックな物語の長 篇小説『風と共に去りぬ』(GONE WITH THE WIND)は1936年に発表され6月に出版さ れると、 たちまち驚異的なベスト・セラーになっています。


マーガ レット・ミッチェル

  ミッチェルは1937年にアメリカ最大の文化賞の小説部門でピューリッツア賞(1936年度)を受賞しています ね。
 この小説は世界中の国語に翻訳されて、各国でもベスト・セラーのナンバーワンに なっています。日本では大久保康雄の翻訳が知られています。(飯島正記事『映画と原作のあいだ GONE WITH THE WIND 風と共に去りぬ』参考)

 マーガ レット・ミッチェルは1900年11月8日ジョージア州のアトランタ市に生まれ、南北戦争を生き抜いた 母方の親類の影響を大きく受けて育ち、『風と共に去 りぬ』を執筆します。1949年8月16日、自動車事故のために亡くなりますが終生アトランタ市を離れ なかったそうです。
 アトランタ市は小説のなかでも非常に重要な舞台になっていますね。
 彼女はこの長篇小説一篇しか生涯書かなかったと言われているほどですものね。(飯島正記事『映画と原作のあいだ GONE WITH THE WIND 風と共に去りぬ』参考)
 実際には1995年になって発見された、ミッチェルがわずか15歳で書いた中編 「ロスト・レイセン」などがあるそうですよ。

 マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)(本名ペギー・ミッチェル)は、 1922年に「アト ランタ・ジャーナル」新聞社に入社し記者になります。同年にレッド・アップショウ(レッ トのような)と結婚し ますが、1924年に離婚しています。そして、翌 年ジョン・ロバート・マーシュと結婚します。二度目の結婚後、初めて買った木造三階建ての新居で、くる ぶしの骨折で寝たきり生活を送っていたミッチェルが1926年に『風と共に去りぬ』を書き始めます。(1993.3.28朝日新聞 社会部 保科龍朗記事『シネマ CINEMA キネ マ』参考)
 最終章「みんな、明日、タラで考えること にしよう。そうすれば、なんとか耐えられる。明日はまた明日の陽が照るのだ」から書き始め、執筆に10年(6年という説も)を費やしたと言わ れています。
 『風と共に去りぬ』(GONE WITH THE WIND)の題名は、アーネスト・ダウサン(1867-1900)の恋愛詩「シナラ」からとったもので、一つの文化が戦争と言う烈風と共に消え去っ たことを意味しているそうですよ。(1989  Week End CINEMA記事『完全修復版として感動をふたたび GONE WITH THE WIND 風と共に去りぬ』 参考)
 当初、主人公の名前はパンジー・オハラだったそうです。

  1936年6月30日、『風と共に去りぬ』は出版され、ハリウッドの名プロ デューサーのデビッド・O・セルズニックは、この本が出た翌月(7月30日)、早くも映画化権を 手におさめ、3年の歳月と、50万フィート(47 万5000フィートの説も)の フィルムを使用して397万7000ドル(また385万ドル、420万ドル、450万ドル、あ るいは 600万ドルとも言われている)、今日の金額に換算す ると、ゆうに千数百万ドルに及ぶ巨大な製作費をかけて完成させています。実際の上映に当たっては2万300フィートにまとめ上げられたそうです。(1989 Week End CINEMA記事『完全修復版として感動をふたたび GONE WITH THE WIND 風と共に去りぬ』参考)
 
 ワールド・プレミアは、1939年12月15日の夜、世界の映画界注視の中で、 物語の主舞台であるジョージア州のアトランタ市で盛大に行われています。これは有名ですね。

  アトランタを愛し続け『風と共に去りぬ』に全精力を継ぎこんだマーガレット・ ミッチェルはアトランタのオークランド墓地に夫ジョンと共に埋葬されています。(「風 と共に去りぬ 幻のメーキング」参考)(草鹿宏『永遠のスカーレット・オハラ ヴィヴィアン・リー物語』 参考)(アン・エドワーズ(1990) [1985]『ヴィヴィアン・リー』文春文庫)(1993.3.28朝日新聞 社会部 保科龍朗記事『シネ マ CINEMA キネマ』参考)

更新 2006.1.9


 南北戦争の時代について書かれたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』 は、37ヶ国語に翻訳され、小説として史上最高の発行部数を誇る世紀のベストセラーと言われています ね。
 だけど、奴隷制の上に成り立っていた米南部の貴族社会で、古き良き南部へのノス タルジーが書かれている『風と共に去りぬ』は、予てから人種差別だと問題視されてもいました。
 アリス・ランダル氏(テネ シー州に住む黒人女性で 2001年に「THE WIND DONE GONE」(風が吹き終えて)を執筆している)は、 「奴隷制時代の亡霊」だと切って捨てていらっしゃって、その作品には亡霊を封印するような意図が込めら れているそうです。
 「Tomorrow is another day」(明日は明日の風が吹く)が、「明日の風に吹かれることのない人々のために(for whom tomorrow will not be another day)、冥福を祈るのだ」と。
 重く響いてきて切ないですね。
 『風と共に去りぬ』は歴史書ではなくて大衆小説ですけど、世紀のベストセラーと なっただけに反響も大きいものがありますね。
 
 マーガレット・ミッチェルが出版(1936年6月)した2年後に阿 部知ニ訳が刊行されたそうですが、「風に散りぬ」というタイトル だったと記されています。
 「Tomorrow is another day」は、 阿部訳では「明日はまた明日の日が 明ける」で、定番の大久保康 雄・竹内道之助訳(新 潮文庫)「明日はまた明日の陽が照るの だ」になっているとのことで す。
 有名な「明日は明日の風が吹く」と訳したのは劇作家の菊田一夫が脚色し た「シナリオ 風と共に去りぬ」ぐらいだそうですよ。
 昭和40年代に帝国劇場で上演された舞台が好評を博したことから、「明日は明日の風が吹く」がメディアを通じて広まったのではと記されています。
 アトランタのマーガレット・ミッチェル・ハウス記念館の案内用パン フレットの日本語訳は(幸せな)明日が来るわ」だそうですよ。(2003.11.15朝日新聞 福島申二記事『be on Saturday ことばの旅人 明日は明日の風が吹く マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」』参考)

 福島申二氏記事では、もうひとつ面白い事が載っていましたよ。
 マーガレット・ミッチェルの墓碑銘のことです。
 「ア トランタに生まれ、アトランタに死す」が、 よく知られていますね。
 実際に刻まれているのは「BORN ATLANTA GA(ジョージア州の略字) NOV 8 1900」「DIED ATLANTA GA   AUG 16 1949」だそうですよ。
 生死の年月日と場所だけが、「アトランタに生まれ、アトランタに死す」と刻まれているように広まるのも、この作品を遺したマーガレット・ ミッチェルへの特別の想いがあるからなのでしょうね。(2003.11.15朝日新聞 福島申二 記事『be on Saturday ことばの旅人 明日は明日の風が吹く マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」』参考)

更新 2006.9.13

マー ガレット・ミッチェル

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参 考文献
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』公開前後
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』コスチューム
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』ミュージック
『風 と共に去りぬ』
ヴィ ヴィアン・リー
ヴィ ヴィアン・リーバイオグラフィー
洋 画
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映画あり き
映 画ありき2
〜クラシック映画に魅 せられて〜

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