《シネマトーク》
『風 と共に去りぬ』公開前後

-Gone with the Wind Release-
 『風 と共に去りぬ』は1939年製作ですけど太平洋戦争が間近だったため日本公開は“時局に合わない”との理由で戦後になっています。
 ですけど、上海での上映を見た小 津安二郎をはじめとする映画人たちは、バックにある国力の違いに驚愕したそうです。結局13年 後の戦後1952年に日本公開されました。
 1952年は連合軍の占領を解 かれ、映画の製作や配給の制約管理も実質的に解除され たからこの年になったのでしょうね。
 チケット料金は歌舞伎芝居なみの高料金600円
(普 通料金100円)だったそうです。

 日本公開が9月であったことか ら、事前に飛行機で海水浴場に20万枚のビラを撒くな ど、大胆な新しい試みも行われています。(1991.10WOWOW  立木祥一郎記事『不朽の名作』 参考)(1990秋 Week End VIDEO CLUB記事『あの場面、あの音楽をふたたび 秋いちばんの名画シアター 風と共に去りぬ参考)
 配給権をもつターナー・エン ターテインメント社によると、今でも世界のどこかで必ず上 映されているそうですね。
 約50年間の世界の映画館での 売り上げは、5億ドル(約 580億円)以上と推計されています。(1993.3.28 朝日新聞 社会部 保科龍朗記事『シネマ CINEMA キネマ』参考)
 史上観客動員数も他の追随を許 さない作品であるのも分かりますね。(1990秋  Week End VIDEO CLUB記事『あの場面、あの音楽をふたたび 秋いちばんの名画シアター 風と共に去りぬ参考)
 
 ス カーレット・オハラ役は『風と共に去りぬ』が映画化されるというと誰がスカーレットをやるのかと大騒ぎに なっていたので、デビッド・O・セルズニック(David O Selznick)プロデューサーがこの主役探しを 映画のPRに使おうとするのですね。


デビッ ド・O・セルズニック

 スタッフはアメリカ中を駆けめぐり、特にアトランタでは500人の自称スカー レットに押しつぶされそうになったそうですよ。
 もちろんハリウッドでもベティ・ディヴィス[写 真]、キャサリン・ヘップバーン[写 真]、キャロル・ロンバード[写 真]、ポーレット・ゴダード[写 真]、ミリアム・ホプキンス[写 真]、タルラー・バンクヘッド、ジョー ン・クロフォード[写 真]、アイリン・ダン、スー ザン・ヘイワード[写 真](他イブリン・キース[写 真]、メイ・ウエスト、バー バラ・スタンウィック[写 真]、ラナ・ターナー[写 真]、クララ・ボー[写 真]、マーガレット・サラバン、ルシル・ボール[写 真]、 ノーマ・シアラー、ク ローデット・コルベール[写 真]、アン・シェリダンの説も)にいた るまでが候補発表、また、名があがり、ついに記者たちは子役のシャーリー・テンプル以外は全部スカー レットのテスト(マーガレット・タリチェット、フ ランセス・ディー、メアリー・ レイ、ラナ・ターナー、アニタ・ルイーズ、リンダ・ワトキンス、ジョーン・ベネット、ジー ン・アーサーなどが受ける)を受けるだろう と叫んだそうで す。
 それがイギリス女優でハリウッドでは無名のヴィ ヴィアン・リーに決定したものですから、イギリス娘に南部の「風」をさらわれたと大変な騒 ぎになったそうですよ。(1989.11.10 雑誌『スクリーン 増刊 50周年記念 風と共に去りぬ特集号 クラシック映画の美しきヒロイン女優たち』 近代映画社 参考 )(1982.12.25『キネマ旬報増刊 映画史上ベスト200シリーズ アメリカ映画 200』キネマ 旬報社 筈見有弘記事 参考) 

  ハリウッドの名プロデューサーのデビッド・O・セルズニックがアメリカのベスト セラー「風と共に去りぬ」の映画化権を翌月(1936 年7月30日)、早くも手に納めていましたが、イギリス では出版されたばかりでした。
 ヴィ ヴィアンはこの小説に心を奪われたそうです。
 スカーレットに惹きつけら れたヴィヴィアンはこの役は自分しかない と思いエージェントのジョン・グリッデンに「スカーレットの血筋は私と同じようにフランスとアイルランドか ら始まっているし、1800年代の中ごろの南部は英国から渡った初代か二代目が殆どだったのよ」と話していました。
 そして、スカーレット風に 写真を撮ったのをアメリカに送ってもらっていました。
 だけど、反応が無かったの ですね。
 その頃、ヴィ ヴィアンはローレンス・オリヴィエとお互いに家庭がありながらも熱烈に惹かれあって結婚し たいと思っていました。
 が、どちらも離婚に同意し てもらえないで家庭を捨てて一緒に暮らしていたので す。
 そんな時に『嵐が丘』の仕 事がオリヴィエにきます。
 オリヴィエは、この作品の ヒロインにヴィ ヴィアンを推したのですが、既に配役が決まっていたために叶わず、オリヴィエだけがアメリ カに向かい離れ離れになっていたのです。
 そ れで、ヴィ ヴィアンはオリヴィエのエージェントのマイロン・セルズニック(デ ビッド・O・セルズニックの兄)に自分のことを話してくれるようにアメ リカにいるオリヴィエに手紙を投函します。
 そして、すぐに電報を打っ て、翌日のクイーン・メェリー号に乗り、ニューヨーク からロサンゼルスに飛び、オールド・ヴィクの舞台に戻るまで5日だけ一緒に過ごせると知らせました。1938 年秋のことです。
 どうしてもいかなければな らないと思っていたのですね。
 スカーレットのこともあり ましたけど、何より『嵐が丘』を撮っていたオリヴィエ と一緒にいたかったからです。
 スカーレット役に選ばれる とオリヴィエと一緒にいられるのですものね。
 オリヴィエは自分のエー ジェントをしているマイロン・セルズニックにヴィヴィア ンを紹介しました。
 マイロンは一目でヴィ ヴィアンの高貴な美しさに魅せられます。
 そして、12月11日夜、 ヒロイン未定のままアトランタ炎上のスペクタクル・ シーン(プロデューサーのデビッド・O・セルズニックがかつて自ら製作した映 画、『キング・コング』(1933)の老朽化した巨大なオープンセットを5000ガロンのオイルをかけ燃や し、 それを7台のカメラと300人のファイアーマンが見守る)の撮影を開始 しているところにオリヴィエとヴィ ヴィアンを連れて行きます。

 馬車が炎のなかを駆け抜けるところは勿論、代役を使って撮影されています。(レッ ト役は曲芸師のスタントマンで、スカーレット役の女性は腕で顔を覆っている)


『風と 共に去りぬ』アトランタ炎上シーン

 マ イロン・セルズニックは「デビッド 君のスカーレットだ」とデビッド・O・セルズニックプロ デューサーに紹介します。
 デビッドはヴィ ヴィアンを見詰めて、呼吸をのんだそうです。
 その奇跡の瞬間のことをデビッドが語っています。「マイロンがヴィヴィアンを私に紹 介したとき焔が彼女の顔を照らした 私は一目見て彼女がぴったりであることを知った 少なくとも彼 女は私が考えていたスカーレット・オハラそのままであった 私はあの時の第一印象を永久に忘れるこ とができないだろう」と。(アン・エドワーズ(1990) [1985]『ヴィヴィアン・リー』文春文庫)
 また、ヴィ ヴィアンに会った時のことを『風 と共に去りぬ』のスタート時の監督ジョー ジー・キューカー「実に美しい女性がそこにいた オ フィスへ連れて行き脚本を読ませた 南部なまりなんて知らなかったろうね とにかく彼女は実に知的 に読んでみせた イギリス発音だったが上手だった」とも語っています。
 デビッドはアトランタ炎上シーンの翌日、ニューヨークにいる妻アイリーンに手紙 を出します。
 「炎 上シーンは凄かったよ こんな興奮は生れて初めてだ 『風 と共に去りぬ』がついに動き出した 嬉しくもあり また怖ろしくもある ローレンス・ オリヴィエとヴィヴィアン・リーに会った 彼女はスカーレット・オハラ役の大穴だ 今週最終テスト をやる」(「風と共に去りぬ 幻のメーキング」参 考)

  スカーレット役の最終候補のジョーン・ベネット、ジー ン・アーサー、ポーレット・ゴダード[写 真]ヴィ ヴィアン・リーがマミー役候補のハッティ・ノエル、ハティ・マクダニエル[写 真]と園遊会に行く前にコルセットの紐 を締めてもらっているシーンと着てゆくドレスを身に着けているシーンなどでテストされます。
 テストが終了した時、ヴィ ヴィアンがスカー レットであることに疑いを抱く者は一人もいなかったそうです。
 デビッド・O・セルズニッ ク代表秘書マルチェラ・ラブウィンは「まさに私たちが探し求めていた女 性だった 会った人は必ずー 彼女の内に燃える何かを感じたわ あの溌剌とした感じは 他の女優に はなかった」と語っています。
 ヴィ ヴィアンはクリスマスに採用を告げられスカーレット・オハラの大役を射止めます。
 2年もかけたスカーレット 探しに終止符が打たれたわけですね。
 1939年1月13日、ヴィ ヴィアン・リー、オ リビア・デ・ハビランド、レスリー・ハワードが契約書にサインし記者発 表があります。(「風と共に去りぬ 幻のメー キング」参考)


『風と 共に去りぬ』デビッド・O・セルズニック、レスリー・ハワード、ヴィヴィア ン・リー、オリビア・デ・ハビランド


『風と 共に去りぬ』デビッド・O・セルズニック、ヴィヴィアン・リー、レスリー・ ハワード、オリビア・デ・ハビランド

 監 督交代も有名ですね。ジョー ジー・キューカーでスタートしていたのですけど、女性の演出が上手いキュー カーにゲーブルが不満を持ち旧友のヴィクター・フレミングに代えて貰うのですね。撮影開始 から2週間後にキュー カーが降ろされます。セルズニックもキュー カーが脚本の台詞を独断で変更していたので代えようと思っていたようですね。
 ヴィクター・フレミングキュー カーの後任としてロバート・レオナード、キング・ヴィドア、ジャック・コンウエイなどの名前も あげ られたがセルズニックはフレミングですでに腹がきまっていた)が撮影し だすと、今度は女優たち、特にヴィ ヴィアン・リーと原作の解釈などで上手くいきません。


『風 と共に去りぬ』ヴィクター・フレミング、レスリー・ ハワード、 ヴィヴィアン・リー

  それに脚本が遅れていることでフレミ ングはセルズニックと常にぶつかり合っていました。それでフレミングが病気(本 当はセルズニックへのあてつけ)を理由に姿を見せなくなります。だけど セルズニックがサム・ウッド(シドニー・フランクリン、ウィリアム・A・ウェル マンも演出したと言う説も)を招き入れますと2週間後にフレミングはス タジオに舞い戻ります。連れ戻しに来るかと思っていたのでしょうね。あせったフレミングは再び演出に精 を出します。
 以後、フレミング、ウッドの2班体制ですすめられていったそうです。これもセル ズニックの宣伝術だったのではと言われていますよ。
 ヴィ ヴィアンとオリビア・デ・ハビランドはキュー カーをひそかに自宅に訪れて、彼とシーンを検討していたそうです。それですから、完成され た映画には大いにキュー カーの影響があったと言われていますけど、作品を観ると分かりますね。(1989.11.10雑誌『スクリーン 増刊 50周年記念 風と共に去りぬ特集号  クラシック映画の美しきヒロイン女優たち』近代映画社 参考 )(アン・エドワーズ(1990)[1985]『ヴィヴィアン・リー』文春文庫)

  レット役はゲー リー・クーパー、ロナルド・コールマン[写 真]、エロール・フリン[写 真]、バジル・ラスボーン、フレドリッ ク・マーチ[写 真]、グルーチョ・マルクスと候補にあ がったのですけど原作者のマーガレット・ミッチェルが、ク ラーク・ゲーブル[写 真]をイメージして書いた(ミッチェルがこの小説を書き始 めた頃は ゲーブルはまだ無名だったそうだから、後から話題作りにされた説もある)と 言われるように、最初はゲー リー・クーパーを選んでいたデビッド・O・セルズニック(1902.5.10-1965.6.22)も、すぐにク ラーク・ゲーブルに変更して彼以外は考えられないと思うようになったのですね。
 しかし、ク ラーク・ゲーブルはMGMお抱えのナンバーワン・ドル箱スターで乗りに乗っていたので、 MGMとしても好き好んで貸し出すわけにいかなかったので、それで条件をつけるのですね。
 交渉は難航したようです。
 それといいます のもロシア移民の子としてアメリカの土を踏んだデビッド・O・セルズニックは24才でMGMに入社し、 その後、パラマウントに移ります。この頃、MGMの 社長ルイス・B・メイヤーの娘アイリーンと結婚しています。そして、1935年に独立してセルズニッ ク・インターナショナルを設立します。ジュディー・ ガーランドの『スタア誕生』、バーグマンの『別離』などのヒット作を送り出して、一匹狼としてメジャー 各社から恐れられる存在だったのです。それで、義父 メイヤーの世話にはなりたくないという気持ちがあったのですね。
 それでもゲー ブルを 貸し出して欲しかったデビッド・O・セルズニックは義父のルイス・B・メイヤーのMGMと交渉に入りま す。ワーナーも入りエロール・フリンとベティ・ディ ヴィスを提示し出資も高額を約束します。しかし、ベティ・ディヴィスは『黒蘭の女』でオスカーを受賞し ていましたしエロール・フリンではゲー ブルより数段落ちるので、MGMはゲー ブルと125万ドルまでの出資を約束し、その見返りとして世界配給権と7年間の興行収入の 半分を要求したのですね。それでデビッド・O・セルズニックはゲー ブルを獲得するのですけど、ゲー ブルは自分が売買のネタにされ負け犬のように思えたし、『風と共に去りぬ』の原作が大ベス トセラーだったためレットのイメージが作られていること、それに時代ものが嫌いだったため、乗り気では なかったのですね。
 有利な交渉を成立させたいMGMのメイヤーはゲー ブルが妻と別れてキャロル・ロンバートと結婚したいと思っていたのを知っていたので、その 慰謝料5万ドルを用立ててレット役を引き受けさせるのです。そして、1938年8月24日にゲー ブルは契約します。

  メラニー役はオリビア・デ・ハビランド[写 真]に決まる前にはフランシス・ディー とジーン・ミュア(他ドロシー・ジョーダン、フラ ンセス・フラー、アンドリア・ リーズ、ジーン・ケント、アン・シヤーリー、マーシャ・ハントがカメラテストを受ける)という清楚な女優が候補に上っています。
 が、セルズニックはジョー ン・フォンテンの本格的デビューの役にしようと考えていたそうです。
 しかし、フォ ンテンはスカーレット役をねらっていたそうですよ。
 そして、第一候補になったのはジョーン・フォンテンの姉オリビア・デ・ハビラン ドなんですって。
 しかし、ワーナーの専属だった彼女はワーナーの許可が必要だったのです。
 そのジャック・L・ワーナーはデ・ハビランドにメラニー役は無理と考えていまし た。
 そこで、どうしてもメラニー役をやりたかったデ・ハビランドは奥の手を使うので すね。ワーナー夫人だった親友に手をまわして、彼女から説得してもらうという。これで許可をもらえたそ うですよ。(アン・エドワーズ(1990) [1985]『ヴィヴィアン・リー』文春文庫)(1989.11.10雑誌『スクリーン 増刊 50周年記 念 風と共に去りぬ特集号 クラシック映画の美しきヒロイン女優たち』近代映画社 参考)

  アシュレー役にはレスリー・ハワードが適しているとセルズニックは思っていたの ですが、ハワードはあまりよい返事をしなかったのですね。それで、ロナルド・コールマン、レイ・ミラン ド、シェパード・ストルードウィック(他ジェフ リー・リン、メルヴィン・ダグラ スがカメラテストを受ける)が候補に上るのですね。
 しかし、セルズニックは気 に入らなかったので以前からハワードがプロ デュース業に興味があったことに目をつけ、自作『別離』のアシスタント・プロデューサーをやらせること を条件に説得して、やっと承諾させています。(ア ン・エドワーズ(1990)[1985]『ヴィヴィアン・リー』文春文庫)(1989.11.10雑誌『ス クリーン 増刊 50周年記念 風と共に去りぬ特集号 クラシック映画の美しきヒロイン女優たち』近代映画 社 参考)

 1939年1月26日に本格的な撮影が始まります。
 オープニング・シーンでス カーレットを囲んで双子のタールトン兄弟が前庭のポー チで話をしているところです。
 しかし、「双子の兄弟の髪が赤すぎる」とデビッド・O・セルズニックがいい没になります。
 結局、このシーンは以後の 数ヶ月、5回取り直され最後になってしまいます。


『風と 共に去りぬ』ヴィヴィアン・リーら

 125日間かかっ た撮影後も50万フィートのフイルムから2万フィートをピックアップするという気の遠くなる作業に取り 掛かります。ペイントと映像を組み合わせるのも殆ど 完璧に処理されますが、一箇所だけ、オークス邸でのパーティ・シーンで、邸に向かう馬車の色づけが間に 合わずに、馬車が透明になっています。これ程凄い作 品にこのようなシーンがあるというのは、何かほっとしますね。

 デ ビッド・O・セルズニックの巧妙な話題づくりと巨額を投じた『風 と共に去りぬ』は関心を集め映画史上最大のヒット作となり、ア カデミー賞の作品・監督・脚色・主演女優・助演女優・撮影・室内装置・編集・特別の各賞とデ ビッド・O・セルズニックが アーヴィング・タールバーグ記念賞を受賞し最多(10 部門)記録をつくります。
 その中の助演女優賞を受賞 したマミー役のハティ・マクダニエル[写 真](1895-1952)は、映画史上で初めての黒人俳優です。が、黒人差別の強い時代だったのでアトラン タで行われた『風 と共に去りぬ』の特別試写会には黒人の彼女は招待されなかったそうです。


アトラ ンタにて オリビア・デ・ハビランド、デビッド・O・セルズニック、ヴィ ヴィアン・リーら

(COLUMN 「いつのまにか脇役だった」川本三郎 参考)(「風と共に去りぬ 幻の メーキング」参考)(1989.11.10雑誌『スクリーン 増刊 50周年記念 風と共に去りぬ特集号  クラシック映画の美しきヒロイン女優たち』近代映画社 参考)

更新 2006.1.15
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参 考文献
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』コスチューム
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』出版前後
シ ネマトーク『風と共に去りぬ』ミュージック
『風 と共に去りぬ』
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